紙平の歴史を紐解くと、初代は安土町※1にて紙屋※2を営んでいました。 八幡開町「1585年(天正13年)」に伴い、秀次※3の命で菩提寺である宝積寺※4と共に八幡城下へと移り住む事になります。 江戸時代に入り商いを薬種問屋へ変えております。(滋賀県八幡町史に記載※5) 和菓子製造を始めた切っ掛けとしては、薬として扱っていた砂糖などを用いた事からだそうです。 江戸後期『安永(1772〜)頃』には和菓子製造が主となっております。 江戸時代、朝鮮通信使※6にもかかわりがあり、来客の接待や荷物も預かっていたと記述※7が残っています。 店先を、派手な衣装を纏った行列が行進したのでしょう。 また、この道は関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が大阪城へ戻る際の道にもなっております。その後、「吉道」といわれ大名などの行列はご法度となっていたそうです。(朝鮮通信使の通行は許可されたそうです。) その時代によって商いは変わっておりますが、「紙平」という屋号は400年以上続いております。
★朝鮮通信使に関わる資料(江戸時代)★ 通信使は、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団の事です。 行列の際、宿として25名が休憩され、「長持」を預かったと記されています。 当時の店主名「紙屋平三郎」で載っています。 所有「近江蒲生郡史」より ※蒲生郡八幡町=現在の近江八幡市。
★明治時代の店舗★ 手前、自転車の後方に写っている人物は4代目。 当方8代目なので曾々爺さんになります。 一番奥が5代目で、中央は5代目の弟です。 男性の右に写っている女性は不明。(2名) 自転車立て、今では見ないですよね。 「かみ平」と書かれています。 ※ 4代目、5代目というのは菓子業を営みはじめた頃(1772年〜)より数えたものです。
★大正時代の店舗★ 子供達は近所の方らしいです。 明治時代の写真に比べ、側溝などが壊れていたりします。 また、ケースの土台は石に変わっていますね。 店前に積んである麻袋は小豆(あずき)です。